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海外での心臓移植を行った青山茂利さんは「移植を待ち続ける状態は残酷で、百%死ぬといわれた方が楽だと思った。知り合った二人の移植患者の待機順位が上と分かり、『二人がいなくなれば』という思いが、頭から離れなくなった。渡航移植で四年半のやせ我慢の日々に終止符を打ったが、今も“悪魔のささやき”が、私のみぞおちのあたりに重しとなっている」と、国会の委員会で語られました。
「それ八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす
たとい一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを知者とす」といえり
― 蓮如上人『御文』―

おとうさんは こめややのに
あさ パンをたべる おおたに まさひろ(6歳)
おとうさんのかえりが おそかったので
おかあさんはおこって いえじゅうのかぎをぜんぶ
しめてしまいました
それやのに あさになったら おとうさんはねていました
やなぎ ますみみ(6歳)
『たいようのおなら−児童詩集』より 灰谷健次郎:編さん
仏教は「覚」の宗教。目覚め、気付きの哲学だといいます。
私達は、自分が自分の意志で、自分所有の身体・人生を生きていると思っています。
しかし、それはもしかしたらとんでもない勘違いであるのかもしれません。 何時の日にか気がついたら自分というものが存在している。その自分は自分の肉体に宿っているようだ。
しかし自分の顔の実像というものは生涯見たこともない。 鏡に映っている自分の顔とおぼしき物は、それに反射された色=可視光線の、反射光を見ているに過ぎないのです。そして、その自分というものは「死」と称される自分の「消滅」=「無」に向かっているらしい。 しかしその「無」は存在しない。なぜなら「無」が存在したら「無」ではないのだから。
身近な人が死んで亡(無)くなると「悲しい」という感情が起こります。 じゃあ何故悲しいのか、それは「もう二度と会えない」から。しかし逆の見方をすれば、会えたということ自体が奇跡的なことなのです。 何故、どのように存在しているかも解らない世界=宇宙に、何故か私?が存在して、何故だか判らないままに、その人との出会いと離れ、それはまさに奇跡だと気付くと、驚きというよりは感謝というよりほかないのではないでしょうか。 それが「報恩(講)」ということなのでしょうか。
釈尊は、真理に合った大きな立場で物事を判断できる人となる道として「正見・正思惟・正語・正行・正命・正精進・正念・正定」という「八正道」ということを解き明かされました。
第一の「正見」は、まさに正しく物事を見きわめるという意味ですが、この在りのままに物事を見(視・観・診・看)ることなんてできるのでしょうか。
物質は目の前にある限りは何も変化せずに在るように見えますが、森羅万象の物はすべて形を変えながら光の速さで過去へと変化しているのです。
「諸行無常」、私達の「今」は、今と認識した時、 即、既に存在しないのです。
♪ なんのために生まれて 何をして生きるのか ―「アンパンマンのマーチ」より― 作詞/やなせ たかし

今 いのちがあなたを 生きている
「いのち」は、漢字では「命」また「生命」と書きますが、「生命」という字は中国からきた言葉であり、一個の個体的な私達の生命。つまり生物的、物質的な内容を示します。生命は滅して、私達一代で朽ち果てます。
ひらがなで表現される「いのち」は、和語、日本語です。い(息、生・イキ)のち(血、乳、道、風、霊)という語源的な意味を持ちます。「いのち」は、人間や動物、植物だけでなく、鉱物(道)、気象(風)などの自然現象を成り立たせている要素を示し、生命と非生命を共に含む多義的な概念として使われてきました。
「いのち」は存在をして存在たらしめているもの、生命を生命たらしめている根元的な力や働き、本質を「いのち」と呼んできたのです。
生きている限りは、いつか個々の生命はその「死」とともにやがて時の流れ、歴史の中に溶け込んでしまうでしょうが、家族や友人達、有縁無縁の人達と分かち合った時間は、それらの人々の記憶の中に生き続け、時の流れ、「いのち」の流れの中に歴史となって存在する永遠の「いのち」となるのです。
「生命」とは命を生きると書きます。 私の一生は、はかなく消えゆく一瞬なのでしょうか、それとも、永遠の「いのち」の輝きとしての一瞬なのでしょうか。
カントは 「人間という存在は、自分の能力を超えているために答えることが出来ないにもかかわらず、人間であるがゆえに宿命のように背負わされている問いに悩まざるを得ない」 と。
今 「いのち」が、わたしを生きている。


新年明けまして
