♪それでいいのだ、それでいいのだ♪

                                   『そのまま』 画:佐藤勝彦


十方の無量菩薩衆(ボサッシュ) 徳本(トクホン)うえんためにとて
恭敬(クキョウ)をいたし歌嘆(カタン)す 
みなひと婆伽婆(バカバ)を帰命(キミョウ)せよ

                                   ―親鸞聖人『浄土和讃』―

 十方から弥陀の浄土へこられる数限りない菩薩は、功徳を修得するために、さらに阿弥陀如来の仏徳を敬い讃えられている。このように十方の菩薩達に讃えられる阿弥陀如来であるから、私達もこの尊い如来に信順せずにおれないのです。
 この和讃にある「婆伽婆(バカバ)」とは、釈迦を意味し「婆伽梵」(バキャボン)とも書きます。サンスクリットのBhagavad(ヴァガバッド)を漢字に音写したもので「覚(悟)れる者」Buddha(ブッダ)と同義語です。
 赤塚不二夫のギャグ漫画『天才バカボン』とは、この「婆伽梵」からきているそうです。
 「レレレのおじさん」も、釈迦の弟子で「掃除」を通して悟りを開いた「周利槃特」(シュリハンドク)に由来しているようです。
 バカボンは天才、奇想天外・奇天烈であり、一種の人知を超越したもの、まさに「婆伽梵」なのです。
 漫画の中でもバカボンのパパは、生まれたばかりだというのに直ぐに歩き、お釈迦様の言葉である『天上天下唯我独尊』(人間には上も下もない、一人ひとりが真に尊く、絶対に平等な唯一無二の存在なのです)と叫んだのだと。
 そしてお釈迦様と同じく「七歩」歩いた。それは誰もが「六道輪廻」の迷いを超え「そのままで仏に成れる存在である」という意味なのです。
 バカボンのパパの口癖「これでいいのだ、これでいいのだ」とは、「世の中の全てを肯定するのです。成ってしまったこと全てが正しいのです」―『自然法爾』― 自力を捨て 阿弥陀如来の絶対他力にまかせきるということです。
 バカボンがこんなにも奥の深い哲学的な漫画だったとは驚くばかりです。
 『そ・の・ま・ま』― 私のなせるわざを そのまま受けとめたらいいのだ そのままで仏の御扱(オアツカイ)だ そのままでいいのだ そのままで美しいのだ ―佐藤勝彦―
通りすがりのオッショハン * - * 23:41 * comments(1) * -

「人の死」によって初めて成り立つ医療=「臓器移植」

 海外での心臓移植を行った青山茂利さんは「移植を待ち続ける状態は残酷で、百%死ぬといわれた方が楽だと思った。知り合った二人の移植患者の待機順位が上と分かり、『二人がいなくなれば』という思いが、頭から離れなくなった。渡航移植で四年半のやせ我慢の日々に終止符を打ったが、今も“悪魔のささやき”が、私のみぞおちのあたりに重しとなっている」と、国会の委員会で語られました。
 「臓器移植法」改正案が、衆院で採決され、脳死を「人の死」とすることを前提に、十五歳未満の子供からの臓器提供を可能とする法案が可決され審議の場は参院に送られました。
 しかし、臓器移植をすることを目的に、脳死を「人の死」と法律で定めるという強引さの中に、「人間の都合」でいのちを選別し、人間の生き死にまでも法律で決めることに関して何か危ういものが感じられます。はたして私達人間にそんな資格が、分限があるのかと疑問をいだかざるを得ないのです。
 八歳の男の子が一歳の時に高熱と痙攣に襲われ、「脳死」と診断されました。しかし三年半前に退院し、その後も様々な「命」の危機を乗り越えて身長は発症時から三十センチ以上も伸び、乳歯六本が永久歯になったということです。鼻の粘膜に吸引用の管が当たると痛そうに首と肩を動かすという。母親は「どんなにつらくても治療に全身で反応して戦っている。生きているのは息子の意志」と話されます。
 移植法では、この子を「死んでいる人」と定義し、場合によっては、まだ心臓が脈打っていて身体の温もりがある子に、移植のメスを入れることもあるのです。
 私達は「人間であるが故に宿命のように背負わされている課題」自分は何処から来て何処に行くのか? 人間が生きるとは何か? そして死ぬとは何か? の答えを不断に希求しています。「いのち」のはたらき、それは人間の思慮をはるかに超えたものであり、それを人間の都合によって「生」「死」を決定してはならないのです。
 「臓器移植」は、「人の死」によってはじめて成り立つ医療であることが「業」として宿しているが故に、つい生きた臓器を「部品」と見たり、脳死した人を「臓器の供給源」とみなす心理 “悪魔のささやき”があり、それは社会(経済)に「役に立つか利益をもたらすか、否か」というところで「いのち」を量り、選別してしまう落とし穴があります。
 「生死」は人間の絶対に避けられない事実です。「死」を遠ざけ、「生」のみを延長することによって「死」を克服することはできません。「生」も「死」も全て丸ごと受け入れる覚悟が出来た時、かけがえのない「今」 この時の「いのち」に出会うことが出来るのでしょう。
 「今、いのちがあなたを生きている」と。
通りすがりのオッショハン * - * 20:42 * comments(2) * -

旅立ち ・ おくりびと



「それ八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす
たとい一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを知者とす」といえり
                          ― 蓮如上人『御文』―  



 映画『おくりびと』がアカデミー賞に輝き世界的に関心を集めています。
 この映画の製作は、主演の本木雅弘がインドのベナレスに旅したことが一つのきっかけとなりました。
 ベナレスはガンジス河の中流に開けた都市で「死の町」といわれます。全土から毎年百万人を超える巡礼者であふれ、人々はこの地で臨終を待ち、やがて荼毘に付され、遺灰をガンジスに流します。三島由紀夫は「人間の肉の実相がその排泄物、その悪臭、その病菌、その屍毒も共々に、天日のもとにさらされ、波の現実から蒸発した湯気のように、空中を漂っていた。ベナレス。それは華麗なほど醜い一枚の絨毯だった。千五百の寺院、ひねもす読経の声も高くひたすらに死を待っている寡婦たちの家、住む人、訪ふ人、死んでゆく人、死んだ人たち,瘡(かさ)だらけの子供たち……‥」(『暁の寺』より)と書き表しています。同時に、富山の青木新門さんの、 (当寺にも二回講演に来られ、親交のある方です) 『納棺夫日記』という本に出会ったことが本木雅弘に強い衝撃を与えたようです。
 ベナレスで見た、「生と死が隣り合う」現実世界。「老と病」「美醜・貴賤・貧富」が混濁するカオスの現世(うつしよ)。本では、死体に群がる「蛆(うじ)を掃き集めているうちに一匹一匹の蛆が鮮明に見えてきた。そして、蛆たちが捕まるまいと必死に逃げているのに気づいた」「蛆も生命なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた」という心の表現に強く心引かれ、ぜひともこの本を映画にしたいと思ったそうです。しかし青木さんは、封切り直前に映画の原作者とされることを拒みました。それはこの映画には「私が一番描いてほしかった『おくりびと』が、“死者をどこに送るのか”が描かれていなかったからです」 と述べておられます 。三島由起夫は、ベナレスでは「無情とみえるものはみな喜悦だった。輪廻転生は信じられているだけではなく、田の水が稲をはぐくみ、果樹が実を結ぶのと等しい、つねに目前に繰り返される自然の事象にすぎなかった」と。
 『おくりびと』の英語でのタイトルは The Departures「出発」という意味。それは私達一人一人が輪廻転生の〈おくりびと〉の主役ということでは… …
通りすがりのオッショハン * - * 12:47 * comments(2) * -

仏教とは、目覚め・気付きの哲学実践


おとうさんは こめややのに 
あさ パンをたべる
         おおたに まさひろ(6歳)

おとうさんのかえりが おそかったので 
おかあさんはおこって いえじゅうのかぎをぜんぶ
しめてしまいました
それやのに あさになったら おとうさんはねていました
                                        やなぎ ますみみ(6歳)                                 
                      
 『たいようのおなら−児童詩集』より 灰谷健次郎:編さん
 
仏教は「覚」の宗教。目覚め、気付きの哲学だといいます。
私達は、自分が自分の意志で、自分所有の身体・人生を生きていると思っています。
 しかし、それはもしかしたらとんでもない勘違いであるのかもしれません。 何時の日にか気がついたら自分というものが存在している。その自分は自分の肉体に宿っているようだ。
 しかし自分の顔の実像というものは生涯見たこともない。 鏡に映っている自分の顔とおぼしき物は、それに反射された色=可視光線の、反射光を見ているに過ぎないのです。そして、その自分というものは「死」と称される自分の「消滅」=「無」に向かっているらしい。 しかしその「無」は存在しない。なぜなら「無」が存在したら「無」ではないのだから。
 身近な人が死んで亡(無)くなると「悲しい」という感情が起こります。 じゃあ何故悲しいのか、それは「もう二度と会えない」から。しかし逆の見方をすれば、会えたということ自体が奇跡的なことなのです。 何故、どのように存在しているかも解らない世界=宇宙に、何故か私?が存在して、何故だか判らないままに、その人との出会いと離れ、それはまさに奇跡だと気付くと、驚きというよりは感謝というよりほかないのではないでしょうか。 それが「報恩(講)」ということなのでしょうか。
 釈尊は、真理に合った大きな立場で物事を判断できる人となる道として「正見・正思惟・正語・正行・正命・正精進・正念・正定」という「八正道」ということを解き明かされました。
 第一の「正見」は、まさに正しく物事を見きわめるという意味ですが、この在りのままに物事を見(視・観・診・看)ることなんてできるのでしょうか。
 物質は目の前にある限りは何も変化せずに在るように見えますが、森羅万象の物はすべて形を変えながら光の速さで過去へと変化しているのです。 
「諸行無常」、私達の「今」は、今と認識した時、 即、既に存在しないのです。

通りすがりのオッショハン * - * 14:44 * comments(2) * -

宗教を信じますか?

善人なおもて往生を遂ぐ
いわんや悪人をや
しかるを 世の人つねにいわく
悪人なお往生す いかにいわんや善人をや
                                −『歎 異 抄』 第 三 条−

 先日の「日本人の宗教観」に関する読売新聞の世論調査によると、「宗教を信じていますか」という質問では、「信じている」が 26・1%、「信じていない 」が71・9%という結果がでていました。

 しかし、この新聞社の質問というのは決して適切な質問とは言えません。むしろ意味のない愚問です。 日本において宗教についての中立的で確かな教育が求められます。

 宗教には大きく分けて相反する二つの類に分けられます。 一つは「原始宗教」や「民族宗教」と言われる、 日本においては「神道」です。これは日本民族にしか通用しない土着の宗教ですが、「霊」の系譜、 「善人」の宗教と言われ、決して疑うことなく信じ切ることによって成り立ちます。自分にとって都合が良くない事を「ケガレ」=「気が枯れる」。 それを治すことを「キヨメ」=「気を良しめる」という構図です。

 もう一つは「普遍宗教」「世界宗教」「近代宗教」などと呼ばれ、 日本においては「仏教」「キリスト教」などです。人間世界の実相、ありのままの自分に「気付く」「目覚める」ことに主眼を置きます。従って「覚」の系譜の宗教と定義され、ある意味で「悪人」の教えであるとも言われます。それは自分の思いや計らいを否定し、その教えを盲信しない、疑い抜くことで真実の「信」が開かれるということでしょう。

 キルケゴールは「自分自身を忘れるという、もっとも危険なことが世間では、いとも簡単になされている」と『死に至る病』で警告しました。

 親鸞聖人は「無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり」と述べられました。 私達の悩みや苦しみの根元は心の「無明」にあります。真の救いはこの「無明の闇」が破られるところに存立し、そこに本当の人間になれる道があるのです。

 「善人なおもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」と。
通りすがりのオッショハン * - * 12:23 * comments(0) * -

アンパンマンの願い

 ♪ なんのために生まれて 何をして生きるのか   

 答えられないなんて そんなのは いやだ! 

―「アンパンマンのマーチ」より―  作詞/やなせ たかし


 『それいけ!アンパンマン』という子供達に人気のアニメがあります。主人公のアンパンマンは、顔があんパンの形をした正義の味方です。アンパンマンは、お腹が空いて元気がない友達に、自分の顔をちぎって「これを食べると元気が出るよ、美味しいよ」と言って、友達に食べさせてあげるのです。アンパンマンは、元気を取り戻し、美味しそうにあんぱんを食べる友達を見て、「よかったね」とうれしそうに微笑むのです。

 仏壇のロウソクは自身を焦がし自らを削って、私達に“いのち”の真実を照らします。そしてお供えの花も、“いのち”の輝きを示すと同時に、やがて枯れることで命の実相に気付かせられるのです。    浄土真宗の“救い”の根拠が御経に次のように書かれています。「 私・阿弥陀如来は、世界中に一人でも、毎日を悲しみと不安と空虚の中に暮らしている、そういう不幸せな人が一人でもいるならば、私は阿弥陀と名告り続けること、佛であり続けることをやめます」と。そして親鸞聖人は、それを受けて「本願力に遇いぬれば、空しく過ぐる人ぞ無き」と言っておられます。
 
  「生きる意味なんて考えなくても、楽しく生きていける」と言う大人も多いでしょうが、アンパンマンは、生きる意味を答えられないなんて「そんなのはいやだ」と叫びます。
 
  「人間の奥底には生きる意味を死に物狂いで希求する願望が激しく鳴り響いている」と小説家カミュは述べています。陶芸家の河井寛次郎は「この世は自分をさがしに来たところ、この世は自分を見に来たところ、どんな自分が見付かるか自分」と。  「人間の、私の“いのち”は何の為に、何を成す為に、そして何処から来て何処へ行くのだろうか?」とは宗教の根本命題である。
 
 アンパンマンは、なおも 『 ♪ 何が君の幸せ 何をして喜ぶ わからないまま終わる そんなのは いやだ ! 』と 歌い続ける。
通りすがりのオッショハン * - * 20:44 * comments(0) * -

今 いのちがあなたを 生きている



今 いのちがあなたを  生きている
         

  「いのち」は、漢字では「命」また「生命」と書きますが、「生命」という字は中国からきた言葉であり、一個の個体的な私達の生命。つまり生物的、物質的な内容を示します。生命は滅して、私達一代で朽ち果てます。

  ひらがなで表現される「いのち」は、和語、日本語です。い(息、生・イキ)のち(血、乳、道、風、霊)という語源的な意味を持ちます。「いのち」は、人間や動物、植物だけでなく、鉱物(道)、気象(風)などの自然現象を成り立たせている要素を示し、生命と非生命を共に含む多義的な概念として使われてきました。

  「いのち」は存在をして存在たらしめているもの、生命を生命たらしめている根元的な力や働き、本質を「いのち」と呼んできたのです。

  生きている限りは、いつか個々の生命はその「死」とともにやがて時の流れ、歴史の中に溶け込んでしまうでしょうが、家族や友人達、有縁無縁の人達と分かち合った時間は、それらの人々の記憶の中に生き続け、時の流れ、「いのち」の流れの中に歴史となって存在する永遠の「いのち」となるのです。

  「生命」とは命を生きると書きます。 私の一生は、はかなく消えゆく一瞬なのでしょうか、それとも、永遠の「いのち」の輝きとしての一瞬なのでしょうか。

  カントは 「人間という存在は、自分の能力を超えているために答えることが出来ないにもかかわらず、人間であるがゆえに宿命のように背負わされている問いに悩まざるを得ない」 と。

  今 「いのち」が、わたしを生きている。

通りすがりのオッショハン * - * 22:00 * comments(0) * -

自灯明・法灯明



 一途に生きているから
 星が飛び
 花が燃え
 天地が躍動するのだ
 雲が呼び
 草が歌い
 石が唸るのだ

 一心に生きているから
 この手が合わされ
 憎しみを
 愛に変えることができるのだ

 一途であれ
 人生は一度きりだから
 一つの道を
 一途に生きてゆきたい

                                      『一途一心』 坂 村 真 民

 近年著しく高齢化社会が進み、ご門徒の家庭ではお年寄りの介護などに苦心し、悩みや戸惑いをいだいておられます。さらに癌などの治療が困難な病に「苦悩」している人が多いことも、ほとほと実感します。

 自身の死期を悟られたお釈迦さまは、沙羅双樹の下で横になり、沈んでいく夕陽を眺めながら「生きること、老いること、病いになることと同様に、死ぬこともまた、あるがままに受け入れるべきものである」と静かに入寂を待たれました。

 そしてお釈迦さまは、私が亡くなった後は「自灯明・法灯明‥‥ 自らを灯明とし自らを所依とせよ、法を灯明とし法を所依とせよ」と教え諭されました。「自ら」とは仏法という「光」によって照らされた自己自身のことです。

 「往生とは限りなく解放され続けることである」と。

 宗教の課題は、私達が「霊」や迷信による呪縛から解き放たれること、また地位、名誉、権威や貧富、美醜、男女貴賤などあらゆる「世間」の囚われからの解放にあります。それは本当に心が自由になれること、「世間」を出て、まさしく「出世」して独立者になれることであるといいます。

 人間の欲望を助長するのが神仏の仕事ではありません。欲望に振り回されている世界から早く目を覚ませというのが本当の神仏の呼びかけなのではないでしょうか。

 宗教は「人の苦悩」を救うのではなく、「苦悩する人」を救うものなのです。
通りすがりのオッショハン * - * 13:29 * comments(0) * -

千の風になって


 『千の風になって』  
           作者不詳/日本語詞・作曲/新井満

 私のお墓の前で 泣かないでください
 そこに私はいません 眠ってなんかいません
 千の風に 千の風になって
 あの大きな空を 吹きわたっています

 秋には光になって 畑にふりそそぐ
 冬はダイヤのように きらめく雪になる
 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
 夜は星になって あなたを見守る


 上掲の『千の風になって』という歌。昨年末にNHKの『紅白歌合戦』で歌われてから大きな反響となっています。
 地球温暖化に伴う様々な天変地異。宗教同士の対立や利権にからんだテロ・戦争など世界規模の困難な問題が発生し、そろそろ理想とされた社会に限界というものが来ているのではと思わせる現代。宗教なしでは生きられない不安な人々の心にこの詩が響いたのでしょう。宇宙、自然、人間の命は一体化して繋がっているという考え方は、ほとんどの人類が共有しています。
 親鸞聖人は「寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。これ無為法身なり。すなはちこれ実相なり。法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり」と。
 「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません」確かにお墓に眠る〈お骨〉は故人の存在の唯一の証しかもしれません。しかし亡き人の〈いのち〉はこのちっぽけな狭いお墓の中のみに留まっているものではありません。「千の風に 千の風になって あの大きな空を吹きわたっています」まさしく「報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり」ある時は大悲の風になり、智恵の光となり、また南無阿弥陀仏の声となって、限りない空間と無限の時間と、そして実存を超越して私を貴方を呼び続けているのです。
 「佛(ほとけ)」とは有形の実物体ではなく私への感応道交の〈はたらき〉なのです。
通りすがりのオッショハン * - * 22:01 * comments(2) * -

“いのち”とは自分が使える時間

 新年明けまして
         おめでとうございます
 正月元旦、当○○寺はもとより全ての仏教寺院において「修正会」という法要が勤まる。
 元旦の「旦」の字は地平線から昇る朝日を表すが「修正会」は新年にあたって「南無阿弥陀佛」の本義、つまり「私達にとって何が真に大切なのか」「命より大切なもの…」を改めて問い正す法儀である。
 宗教思考は、限りの無い永遠の〈いのち〉の流れを「時」という概念で捉え、〈いのち〉の営みを天体の動きを元に年・月・日・時・分といった単位で計ろうとした。
 ドイツの哲学者カントは「人間という存在は、自分の能力を超えているために答えることが出来ないにもかかわらず、人間であるがゆえに宿命のように背負わされている問いに悩まざるを得ない」と。
 宗教は何千年もの間「生命とは何か」そして「人間が生きるとは何か」「死ぬとはどういうことか」を根本命題として問い続けてきた。
 私達はこの宿命のように背負わされた課題を、それは避けがたい自他の死と向かい合うことを通して問い続けてきた。
 「生命」とは命を生きると書くが、単なる物質ではない〈いのち〉の本質を問い続けることが私たちの最大の課題なのであろう。
 〈いのち〉のはたらきは人間の思いを遥かにに超えた永遠という時間であり、私の〈いのち〉とは自分が使える時間のことであると言う。


通りすがりのオッショハン * - * 20:11 * comments(4) * -
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