愚か者、自分を自分で担いで歩こうというのか。
乞食よ、自分のうちの門口に立って物乞いをするのか。
タゴール
お布施を梵語(古代インド語)では「ダーナ(檀那・旦那)」といい、慈悲の心をもって他人に財物などを施すことを言います。
「お布施」という言葉からは宗教的に金銭などを寄付することを連想しますが、これは「財施」と言います。
布施(ダーナ)にはもっと広い意味があり仏の教えを説くことを「法施」と言います。また人々の不安や恐怖を取り除く「無畏施」と呼ばれる布施。その他に笑顔を人に見せることが、それを見る人に幸福を届けことになるという「和顔施(わがんせ)」など、誰かに何かを与えることはすべて布施になります。
知識のある人が何かを教えてあげたり、時間のある人がその時間を使って誰かの役に立つことも布施です。
人は他人に何かを与えることによって社会の中で役に立つ存在となり、その生き方が有意義なものとなり、自分の行動も正されるのです。
家の主人のことを檀那(旦那)さんと言いますが、この檀那さんとは「布施をする人」、檀家とはその家という意味なのです。
この布施=ダーナには、施す者も、受け取る者も、施す物品も三者ともに清浄で、なんの執われもないものでなければなりません。もちろんそれは「自分の物」であることは当然です。
臓器移植の臓器を提供する人を「ドナー」と言いますが、これはお布施のダーナという言葉がヨーロッパで転化したものです。
今年七月から本人の臓器提供の意思が無くても家族の承諾があれば臓器提供が可能となり、また十五歳未満の子供からの臓器提供も可能となりました。
この二ヶ月の間、立て続けに九人の意思表示のない人から、家族の承諾のみで臓器摘出、移植が行われました。
何か寄ってたかって「いのち」ある人間ではなく、機械の部品に群がるような、生命が「いのち」自身を、「菩薩」を否定しているかのように感ずるのは思い過ごしでしょうか。
病気と貧困から人間を救済し、豊かな社会を目指してきたはずの科学的合理主義は、それ自身が人間社会を害するようになっています。
移植された臓器は、必ずレシピエント(移植を受けた患者)の体と拒絶反応を起こし、免疫抑制剤を一生投与しなくてはなりません。
自然の摂理に逆らって自然と対決する人間の科学として造り出した臓器移植は仏教とは方向性を逆にしているのです。
施し合い、支え合うダーナ=布施行の、ひと繋がりである人間社会に縦横無尽に裂け目が入れられ「生きるに値する命」と「生きるに値しない命」に二分する優勝劣敗の「優生思想」なのです。
一つの人間のいのちが死に向かっている。その横で脳死を期待して「まだ…」と、自分自身におののきながらも人が死ぬのを待っている。
「いらぬ身と 人にあたへて悦ばば 菩薩の行を 軽んぜむなり ―芳立― 」